この記事は夏のブログリレー27日目の記事です。
どうも、25BのITです。あなたは合理主義者ですか?世の中には合理主義者と呼ばれる人たちがたくさんいます。彼らは理性や理論を大切にするらしい。でもちょっと待った!それ、本当に合理的?
序論
Wikipediaによると、合理主義という言葉には、たとえば次のような意味があります。
- 修練・経験則に囚われず、目的達成のために最短・最効率な手段を選択していこうとする態度。効率主義。
- 感覚・経験ではなく、理性・論理・合理性に依拠する態度。理性主義。
とのこと。
ただ、哲学史上の「合理主義」はもっと厳密な意味を持っています。この記事で扱うのはそれそのものではなく、もっと日常的な意味での「合理主義」――つまり、感情や直感よりも、論理や効率を重視する態度についてです。
この考え方は、一見とても素晴らしいものに見えます。曖昧な感覚や気分ではなく、できる限り客観的な情報と論理に基づいて判断する。いかにも「合理的」って感じです。
しかし、ここで一つ疑問が浮かびます。
合理的に考えるためには、本当に感情を判断から遠ざけるべきなのでしょうか? むしろ、感情も判断材料に含めたほうが、より合理的なのでは?
と。
感情は「非合理」なのか?
そもそも、人間の意思決定には感情が大きく関わっています。
何かを欲しいと思う。楽しいことをしたいと思う。嫌なことを避けたいと思う。誰かに認められたいと思う。理性的に計画を立てたとしても、その計画が本質的に求めているものをたどっていけば、いずれ幸福や満足、安心といった感情に行き着くことでしょう。
もちろん、感情のままに行動することが合理的だと言いたいわけではないのです。
「怒ったから相手を殴る!」「悲しいから何もかも投げ出す!」「欲しいから貯金を全部使う!」こうした行動まで合理的だなんて言えるわけもありません。
しかし例えば、
「二つの企画案を比べたとき、条件だけ見ればほとんど差はない。でも、なぜか片方には強くワクワクする。なら、その感情には、自分がまだ言葉にできていない魅力や可能性が隠れているのかもしれない」
こんな風に考えるのはどうでしょう。これはむしろ、かなり合理的な思考と言えるのではないでしょうか?
つまりは、感情に従うことと、感情を判断材料にすることは、まったく別の話なのです。
なぜ感情は扱いづらいのか
では、なぜ「合理的に考えよう」としたとき、感情はしばしば邪魔者のように扱われるのでしょうか?
理由は単純です。
感情というシステムが、あまりにも複雑だからです。
世の中には喜怒哀楽という言葉がありますが、人間の感情はそんなに簡単に分類できるものではありません。
なんとなく楽しい。
悲しいのに、少し嬉しい。
怒っているつもりだったけれど、よく考えると寂しいだけだった。
そもそも言葉で表せない。
そんな感情はいくらでもあります。人によって感じ方も違いますし、同じ人でも状況によって変わります。こんなものを完璧に計算して判断するなんて、土台無理な話でしょう。
では、感情を考えるのは諦めるべきなのか?
私はそうは思いません。たとえば、
お金が手に入れば嬉しいと思う。
突然誰かに殴られれば、そいつに対して怒る。
大切にしていたペットが亡くなれば、悲しく感じる。
好きなゲームを遊べば、楽しくなる。
当然、例外はあるでしょう。しかし、完璧には分からなくても、ある程度なら予測できるはず。
というか、そもそも感情以外のものなら簡単に予測できるのでしょうか?
そんなわけもありません。
気象、災害、経済、市場、人間関係、社会の流行、組み合わせ爆発……。世の中には、複雑で予測困難なものがいくらでもあります。
私たちは、それらを完全には予測できないと知りながら、それでもデータを集め、確率を考え、モデルを作り、より良い判断をしようとするのです。
だったら、感情だけを特別に判断の外へ追い出す必要は無いのではないでしょうか。
真の合理主義
それを踏まえて、もっと「合理的」な合理主義とはいったい何なのでしょうか?
私は、こう考えます。
真の合理主義とは、確実なものに加え、感情や直感、不確実性を含むあらゆる要素を可能な限り判断材料として扱い、その限界を認識したうえで、より良い予測と判断を目指す態度である。
つまり、
「分からないから無視する」のではなく、
「完全には分からない。でも、分かる範囲では考える」ということです。
これこそが真の合理主義だ!
……と思う。
何を「最適化」するのか?
ここで、もう一つ重要な問題があります。そもそも「合理的な選択」とは何なのでしょうか?
たとえば、次の究極の二択を考えてみます。
Aを選べば、1万円もらえる。
Bを選べば、5000円しかもらえないけれど、ものすごく楽しい体験ができる。
金額だけを見れば、Aのほうが得です。
では、Aを選ぶのが絶対に合理的なのでしょうか?
いいえ、そうとは限りません。
目的が「できるだけ多くのお金を得ること」なら、Aが合理的です。
しかし、目的が「今日一日をできるだけ幸せに過ごすこと」なら、Bのほうが合理的かもしれません。
何を目的とするのかによって、合理的な選択は変わります。
そして、その目的の中には当然、楽しさ、安心、満足、誇り、愛着といった感情も入ってきます。
そう考えると、
「感情を排除すること=合理的」
という考え方は、少しおかしく見えてきませんか?
使い道
だから何?と思う人もいるでしょう。でも、この考え方はいろいろな場所で役に立ちます。
たとえば買い物。
機能、価格、耐久性だけを比較すれば、ある商品Aが圧倒的に優れているとします。
しかし、商品Bのデザインがものすごく好きで、毎日使うたびにちょっと嬉しくなるとしたら?
その「ちょっと嬉しい」を無視してAを選ぶことが、本当に合理的とは限りません。
もちろん、
「欲しいから買う!」
だけではただの衝動買いです。でも、
「Bを選んだ場合、自分はこのデザインによって毎日どの程度満足するだろう」
と考えるなら、それも立派な判断材料です。
マーケティングも同じです。
実際の商品は、販売価格、原材料費、加工費、輸送コストだけで売れるわけではありません。
外見、ブランドイメージ、開発ストーリー、口コミ、流行、広告から受ける印象。
そうした要素も購買行動に大きく影響します。
消費者が感情を持った人間である以上、その感情を無視して市場を分析するほうが、むしろ非合理的です。
つまり、現実の優れたマーケティングは、すでに「感情を合理的に扱う」ということを実践しているわけです。
「考えないこと」は合理的か?
ここまで考えると、面白い事実が見えてきます。
合理的であろうとして、
「感情は曖昧だから考えない」
「直感は非論理的だから考えない」
「複雑すぎるから考えない」
と切り捨てていく。
しかしそれによって、現実に存在する重要な要素すらも無視してしまうことが十二分に起こり得る。
であるならば、そのような態度自体が、もはや「非合理的」と言えるのではないでしょうか?
もちろん、何もかもを無限に考えることはできません。情報を集めることにも、考えることにもコストがあります。だからこそ、
「何をどこまで考えるか」
その判断自体も合理的でなければならない。
大事なのは、単純化することではなく、
「これは単純化している」
と自覚することなのだと思います。
結論
結局のところ、私が言いたいのは、合理主義そのものを捨てようということではありません。むしろ逆。
もっと徹底的に合理的になろう、という話です。
感情だから
直感だから
複雑だから
それらを無視してしまう。
そんなふうに、いかにも非合理的っぽく見えるものを思考の外へ追い出してしまえば、見えなくなってしまう世界があります。
感情に流される必要はありません。しかし、感情が存在するという事実まで無視する必要もまたありません。
直感を盲信する必要はありません。しかし、その直感がどこから生まれたのかを考える価値は十分あります。
分からないものを、分からないまま扱う。
予測できないものを、予測できないと知ったうえで予測する。
そして、自分の理論そのものが間違っている可能性さえ判断材料に入れる。
いかにも合理的っぽい考え方に囚われず、考えられるものは全部考えてみる。
そうすることで、これまで見落としていたものが、少し見えるようになるかもしれません。
合理主義に囚われることのない合理主義者。それこそが、真の合理主義者です。
さあ、「真の合理主義者」になろう!
明日の投稿者は@odangoです。お楽しみに!