【おとめ座】
春から初夏にかけてが見頃で、中でもα星のスピカはうしかい座のアークトゥルスとしし座のデネボラと合わせて春の大三角を形成する。星座のモデルは諸説あるが、豊穣の女神であるデーメーテールという説もある。その手には正義を測る天秤と麦の穂を持つ。
彼女と出会ったあの夜も、女神の純潔を象徴するかのようなスピカの青白い光が、二つの星と結ばれて夜空を静かに飾っていた。
元から星が好きだったかと言われれば、首を横に振ることになる。昔、雑誌の特集で見た星占いに夢中になった時期はあったけれど、それは年頃の女の子が一度は通る儀式のようなもの。運勢のシンボルとして消費される星に興味はあっても、夜空に厳然と存在する星そのものの美しさや、人間の尺度などが到底及ばない、絶対的な静寂の世界に惹かれていたわけではなかった。そんな私が天文研に入部したのは、今思えばまさに星の巡り合わせとしか言いようがない。
きっかけは、入学してすぐに配られた分厚い部活動紹介の冊子だった。きらびやかな写真と共に「一緒に汗を流そう!」と呼びかける運動部や、華やかな文化祭のステージ写真が並ぶ吹奏楽部。そんな輝かしいページをめくりきった、一番最後の隅の方。「文化系研究会」という地味な括りの中に、それはあった。他の会が活動内容や部員数をアピールする中、そこにはただゴシック体でこう書かれているだけ。
【天文研究会 21:00~】
写真も、説明文も、連絡先すらもない。お世辞にも新入生を歓迎しているとは思えないその素っ気のなさに、しかし、私の心はざわめいた。夜の九時。他の生徒がとうに家路につき、静まり返っているはずの時間。そんな真夜中に一体何をしているというのだろう。昼間の喧騒とは切り離された誰も知らない秘密の時間が、この学校には流れている。その謎めいた響きが、かえって私の好奇心を強く、強く掻き立てたのだ。もしかしたらただの誤植なのかもしれない。あるいは、もう活動していない廃部寸前の集まりか。そんな考えも頭をよぎったが、一度気になってしまえばもう駄目だ。私はまるで何かに引き寄せられるように、入部届に大きく「天文研究会」と書いた。
その日の夜、書かれていた21時きっかりに私は校門の前に立っていた。昼間とは全く違う、静寂に支配された学校。まるで肝試しでもするような気分で誰もいない渡り廊下を歩く。コンクリートの床に自分の足音だけがやけに大きく響いていた。目的の部室はその一番奥にあった。意気揚々というよりは固唾を飲んで。高鳴る心臓を落ち着かせるように一度大きく深呼吸をしてから、冷たいドアノブに手をかける。この扉の向こうに、私の知らない夜の世界が本当に存在するのだろうか。
沈黙を破るように「失礼します」と声を掛け、返事も待たぬまま扉を開いた。扉の向こうも廊下と同じ、ただ深い闇が広がっているだけだと思っていた。しかし、違った。部屋そのものは確かに静寂に満ちていた。けれど、それは空っぽの静けさではなかった。その闇の真ん中に、ぽつりと一つの白い光が灯っているかのように──。机に向かって一人の少女が座っていた。彼女の存在そのものが、この部屋の唯一の光源であるかのようだった。
彼女は、部屋を包む宵闇とはあまりに不釣り合いなほど白く輝いて見えた。色素という概念を置き忘れてきたような長髪、磨き上げられた水晶のように滑らかな肌。もしその身体に触れたらぱりんと音を立てて砕け散ってしまいそうで、私は思わず息を呑んだ。そんな彼女は、呆気に取られ入口で固まる私をその端正な顔で一瞥すると、今まで読んでいた本をそっと閉じ、
「……そこに」
と、向かいの席に座るよう私に静かに促した。
【アンドロメダ座】
秋の夜空に、カシオペヤ座の近くで見つけることができる星座。神話では、海の怪物の生贄として岩に鎖で繋がれた悲劇の王女の姿とされる。しかし、その鎖は英雄ペルセウスによって断ち切られ、後にアンドロメダはペルセウスの妻となった。
彼女は、震える手で差し出された私の入部届に視線を落とした。
「入部希望者。……初めて見たわ」
鈴が鳴るような、けれど温度の低い声だった。
「あの、部員は……」
「さあ。ずっと私ひとりだったから。あなたが、ふたりめ」
彼女はくすりと笑う。その笑顔は、まるで精巧な人形が初めて感情を見せたかのようで、私は少しだけ心臓が跳ねるのを感じた。
「あなたはどうしてこの時間に?全日制の生徒でしょう」
「えっと、活動がこの時間からだと……」
「ああ、それは私の都合。私は定時制だから」
そこで初めて、私はこの高校に定時制課程があったことを思い出した。毎日学校に通うのが難しい生徒や様々な事情を抱えた人が、夕方から夜にかけて授業を受けるコース。目の前の彼女も何かを抱えているのだろうか。
「少し、身体が弱くてね」
私の心を見透かしたように彼女は言った。風がカーテンを揺らし、窓から差し込む月光が彼女の白い肌をいっそう白く照らし出す。
「それに、お日様の光も私には強すぎる」
私ははっとした。アルビノ。日光に弱いその体質が彼女を夜の世界へと導いたのだ。彼女の身体があんなにも白く輝いてるのもそれが理由だ。
「でも、星は好きよ。お日様と違って私を優しく抱いてくれるもの」
そう言って微笑んだ彼女の横顔から目が離せなかった。どこか現実味の無い儚げな見た目とは裏腹に、その瞳には、私などが到底及ばない、宇宙の深淵を覗き込んできた者だけが持つ静かな強さが宿っていた。
「あなたは?」
「え……」
「あなたはどんな星が好きなの」
不意の質問に、私は言葉に詰まる。正直に言うしかなかった。
「すみません、私、星のことはあまり知らなくて……。ただ、この研究会のことが、その……気になって」
私のしどろもどろの答えに、彼女はきょとんと目を丸くし、そして、ふっと口元を綻ばせた。
「正直な子ね。じゃあ、こんな場所で話していても仕方ないわね」
彼女はすっと立ち上がると、私に向かって手招きをした。
「ついてきて。本当は、今夜はここで静かに本でも読もうかと思っていたの。でも……」
彼女は悪戯っぽく微笑むと、シッ、と唇の前に人差し指を立てた。
「今夜は特別。歓迎会をしてあげる」
彼女に連れられるがままに廊下を抜け、階段を登る。彼女の白い背中は暗い階段をまるで浮遊するかのように上がっていく。私は見えない糸に引かれるかのように、その華奢な背中を追いかけた。最上階に辿り着き、彼女が屋上へ続く鉄の扉に手をかける。躊躇いなく扉が開け放たれた瞬間、今まで感じたことのない夜風が、私たちの間を通り抜けた。彼女は構わず歩みを進め、数歩遅れて私も続く。
刹那──私は息を呑んだ。視界の全てが、無数の星々の瞬きで埋め尽くされていた。天の川さえも、淡い光の帯となって夜空を横断していた。それは私が今まで知っていた「星空」という言葉では到底足りない、圧倒的な光の宇宙だった。もちろん、今までだって星空を見上げたことはあった。けれど、それは日常の風景の一部でしかなくて、心を動かされたことなんて一度もなかった。でも今、目の前に広がる光景は違った。一つ一つの星が、意思を持って私に語りかけてくるような凄まじい生命力に満ちていた。人知を超えた美しさがそこにはあった。
風が彼女の白い髪をさらっていく。夜空の闇を背景に、その色素の薄い髪の一本一本が、まるで星の光をその身に宿しているかのようにきらきらと輝いていた。
私は「星」に心を奪われた。
【はくちょう座】
夏の天の川に大きな翼を広げる、北十字の形に並んだ星座。ギリシャ神話では、大神ゼウスがスパルタの王妃に近づくために変身した優雅な白鳥の姿とされる。そのくちばしで輝く星アルビレオは、望遠鏡を向けるとサファイアの青とトパーズのオレンジ、二色の光が寄り添うように輝く。全天で最も美しい二重星と謳われる、天上の宝石である。
夜空に輝く星々と同じように、彼女は太陽が地平線に身を隠してからしか姿を表さなかった。それに、毎日部室に顔を出すわけでもなく、時には数日間、ぷつりと連絡が途絶えることも珍しくなかった。しかし、それは彼女の身体が弱いが故のことだ。彼女の姿が見えなくても、きっと今日は調子が悪いんだろう、と納得した。そして私が一人部室で星図を眺めていると、なんの前触れもなく背後で「こんばんは」と声がする。振り返ると、いつからそこにいたのか、彼女が当たり前のように立っているのだ。まるで気まぐれな惑星のようである。太陽の近くにいる間は全く姿が見えず、忘れた頃にふと、真夜中の空に驚くほど明るい姿を現すのだ。
しかし、そんな気まぐれな彼女と過ごすふたりきりの天文部の日々は、何にも代えがたい宝物のような時間だった。彼女は私の知らないことを星の数ほど教えてくれた。天体望遠鏡の扱いだけでなく、星座にまつわる様々な国の神話や、肉眼でもアンドロメダ銀河を見つけるコツ、そんなことまで私に教えてくれた。彼女の知識はただの本の受け売りではなかった。星々の話をする時の彼女は、まるで古い友人のことを語るようにひどく優しい顔つきになるのだ。
部室の本棚には古い星図鑑や宇宙の写真集が整然と並んでいた。その中の一冊、海外の大きな写真集を私は夢中になってめくっていた。ページいっぱいに広がる色鮮やかな星雲の写真。見たこともないような複雑な光のグラデーションに、私は「わぁ……」と子供のような声を漏らす。
ふと、向かいから「くすくす」と鈴が鳴るような忍び笑いが聞こえた。顔を上げると、彼女が口元に手を当てて楽しそうにこちらを見ている。
「まるで、初めておもちゃを与えられた子供みたい」
「だ、だって、すごく綺麗で……」
「ふふ。……本物も、見てみたくない?」
そんな会話をきっかけに、私たちは学校の屋上にふたりで望遠鏡を運び、三脚を立てる。彼女は天の川の方角を指差した。
「あの辺りに、白鳥が羽を広げたような形をした星座があるでしょう。その翼の付け根あたり。そこに望遠鏡を向けてみて」
私は震える手で望遠鏡を操作し接眼レンズを覗き込む。ピントを合わせると、写真集で見たような鮮やかなピンクや赤の色はそこにはなかった。代わりに、ぼんやりとした白い煙のような塊が、かすかにその形を現している。それはまるで靄のようだった。
「……これが?」
私が少しだけがっかりしたような声を出すと、彼女は耳元で優しく囁いた。
「ええ、これがオメガ星雲。生まれたばかりの星たちが放つ、最初の産声。私たちの目には淡い光にしか見えなくても、そこでは今、新しい世界が生まれているの」
その言葉を聞いた後、もう一度レンズを覗き込む。ただの光の染みだったはずのそれが、無数の星々を生み出す巨大な揺りかごに見えた。その荘厳な光景に息を呑む私に、彼女が
「ピント合わせ、上手よ」
と小さく褒めてくれる。それだけで、胸が熱くなった。
ある時、ベテルギウスを指差して彼女は静かに語った。
「あの光が何百年も前に放たれた光だなんて、不思議だと思わない?」
こくりと頷く私に、彼女は続けた。
「今私たちの目に届いているこの輝きは、あの星のずっと昔の姿。もしかしたらあの星自身は、もうとっくに燃え尽きて死んでしまっているかもしれないのに」
「えっと……?」
「人間は、そんなふうに遠く離れた星の過去の姿を一つ一つ線で結んで、星座として大切に記憶する。……少しだけ、ずるくて、愛おしい生き物ね」
私はその時、彼女の真意を理解できなかった。星空を見上げる彼女の横顔が、どこか寂しそうに見えた。
肌寒い日は空気が澄み渡り、星々がより一層強く輝いた。そんな日は決まって屋上へ上がった。彼女が銀色の魔法瓶から注いでくれる温かいココアを両手で包み込み、二人で一枚の分厚いブランケットに肩を寄せ合って包まる。胸に広がるココアの温かさと、すぐ隣にいる彼女の吐息、そして体温。私は、このまま時が止まってしまえばいいのにと本気で願った。
【ペルセウス座】
ギリシャ神話の英雄ペルセウスの星座。怪物の首を携え、アンドロメダ姫を救った勇者の姿で描かれる。毎年8月、この星座を中心に空に降り注ぐペルセウス座流星群はスイフト・タットル彗星を母天体とする流星群で、英雄が振りまく輝きの軌跡とも、聖人が流した涙とも言われる。毎年8月13日頃にピークを迎え、三大流星群の1つとしても知られている。
二人で過ごした日々の中でどの思い出が一番大切かと問われたなら、私は迷わずあの夏の夜に見たペルセウス座流星群を挙げるだろう。
夏休みも半ばを過ぎたその日、私たちはいつもより一際遅い時間に学校に忍び込んでいた。いつもの時間でさえ、学校は静まり返っている。けれど、定時制の授業が全て終わり、終電さえもなくなったこの時間は、それとは比べ物にならないほどの本物の静寂に支配されていた。日中の熱気が閉じ込められた生温かい廊下に、私たちの足音だけが響く。いつもなら遠くに聞こえるはずの国道を走る車の音も、今夜は何も聞こえない。その完璧な無音の世界が、これから始まる夜をいつもとは違う特別なものなのだと告げているようだった。
私の胸が期待に少しだけ早く脈打つ。やがて、彼女が慣れた手つきで屋上へと続く扉を開けた。その瞬間、淀んだ空気が、ふっと夏の夜の匂いに入れ替わる。屋上の真ん中にレジャーシートを広げ、二人で並んで寝転がった。眼前に広がるのは、この数ヶ月ですっかり見慣れた、私たちの夜空だ。天の川も、今日はいつもより心なしか輪郭がはっきりしているように見える。彼女に教えてもらうまで、その存在すら意識していなかった光の帯。今では、それがそこにあるだけで心が安らいだ。
最初は、ぽつり、またぽつりと、空の端をかすめるように光が走った。
「あ、今……」
私が声を上げるたびに、彼女は「ええ」と静かに相槌を打つ。やがて、その数は次第に増えていき、まるで合図でもあったかのように、空のあちこちから無数の光が降り注ぎ始めた。右から、左から、頭上から。それはもう、流れ星というよりも光の雨だった。
「すごい……」
言葉を失った私の口から、ただ感嘆のため息だけが漏れる。消えたかと思えばまた新しい光が生まれる、そのあまりに圧倒的で、あまりに美しい光景に、私は知らず知らずのうちに涙を流していた。この感動を隣にいる彼女に伝えたくて何度も言葉を探すけれど、陳腐な言葉しか浮かびそうになくて、ただただ空を見上げることしかできなかった。
ふと、隣にいる彼女の様子が気になり、そっと横顔を盗み見る。彼女は、泣いている私とは対照的にとても穏やかな顔をしていた。ほんの少しだけ口角を上げ、まるで懐かしい風景でも眺めるように、静かに空を見つめている。その瞳に映るのはきっと私が見ているものと同じ光景のはずなのに、どこか違って見えた。ああそうか。彼女にとってこの光は、自分を決して傷つけることのない、ただただ優しい光なのだ。そう思うと、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
「先輩!」
衝動的に、私は彼女に向かって叫んでいた。
「すごい、すごいです……!来年も、絶対見たいです!先輩と、一緒に!」
光の喧騒の中で、私の声はやけに大きく響いた。彼女はゆっくりと私の方に顔を向ける。その表情は、一瞬だけ、ほんのわずかに揺らいだように見えた。何かをこらえるような、何かを諦めるような、そんな複雑な色が瞳の奥に浮かんで、すぐに消えた。
そして、彼女はいつもの穏やかな笑みを作ると、はっきりと、こう言った。
「そうね。約束よ」
【みなみうお座】
秋の夜空、南の低い位置で輝く小さな星座。一等星フォーマルハウトを除いては目立つ星がなく、その姿を見つけるのは少し難しい。フォーマルハウトは、周りに明るい星が少ない中で白く輝くため、日本では古くから「秋の一つ星」と呼ばれ親しまれてきた。
彼女と過ごす二人だけの天文部の活動は、私の高校生活そのものだった。銀色の魔法瓶から注がれる温かいココアの味も、一つのブランケットに包まった時の彼女の匂いも、夜空の星々を語る彼女の静かな声も、その全てが宝物だった。あまりに輝かしいその光の中で、私はすぐそばに落ちていた濃い影から、無意識に目を逸らしていたのかもしれない。
私が進級し、季節が一周する頃には、彼女が部室に顔を見せる日数は明らかに減っていた。入部当初は毎日のように会えていたのに、週に三日、二日と、その間隔はゆっくりと、しかし確実に開いていく。たまに会えた彼女の顔には、以前よりも疲労の色が濃く浮かんでいるように見えた。屋上へ続く階段を上る彼女の背中が、前よりも少しだけ小さく見えた。
理由は、考えたくなくても分かっていた。彼女のその儚い身体のことだ。
「最近、疲れていませんか」
「無理しないでください」
喉まで出かかった言葉を私はいつも飲み込んだ。その話題に触れることはまるで禁忌のように思えた。言葉にしてしまえば、この幸福な時間が本当に終わってしまうのではないか。そんな恐怖が私の口を固く閉ざさせた。私たちは気づかないふりを続けた。ふたりだけの部室に、決して口にしてはいけない沈黙のルールがいつからか存在していた。
そして、二度目の夏が来た。去年の約束を私は一日たりとも忘れたことはなかった。ペルセウス座流星群が極大を迎える夜が、刻一刻と近づいてくる。なのに、彼女はついに学校にぱったりと姿を見せなくなった。一日、三日、一週間。部室の扉を開けても、そこにあるのは静寂だけ。彼女がいつも座っていた椅子が、がらんと空いている。
そのまま約束の夜が来た。空は雲ひとつなく晴れ渡り、まるで天の祭典を祝福しているかのようだった。今日だけはきっと来てくれる。だって、約束をしたのだから。そう自分に何度も言い聞かせ、ドアの前で一度、深く息を吸う。初めてここを訪れた日と全く同じように。どうか、と祈りながら、冷たいドアノブに手をかけた。
扉は聞き慣れた軋み音を立てて開く。そこに広がっていたのは、この数週間私が見慣れて、そして何より恐れていた光景だった。窓から差し込む月明かりが、彼女がいつも座っていた空っぽの椅子を白く、冷たく照らしている。私の最後のか細い希望を嘲笑うかのような、完璧な静寂がそこにはあった。
胸の奥でかろうじて繋ぎとめていた希望の糸が、ぷつりと音を立てて切れた。もう、待っているだけでは駄目だ。意味がない。彼女の声が聞きたい。彼女のいる場所を知らなくては。いてもたってもいられず、私はスマートフォンの画面を立ち上げた。
『先輩、お元気ですか?今日はペルセウス座流星群の見頃ですよ』
メッセージを送る。既読はつくのに返信はない。また送る。
『どこにいるんですか?体調が悪いなら、お見舞いに行きます』
しばらくして
『大丈夫』
とだけ短い返信が来た。大丈夫なはずがない。彼女は今までも、自分の居場所を聞かれるといつものらりくらりとはぐらかしていた。でも、今は。
『約束、したじゃないですか』
気づけば、私はそんなメッセージを送っていた。画面の向こうで、彼女が文字を打っては消している気配が伝わってくる。長い沈黙の後、ついに一通のメッセージが届いた。それは言葉ではなく、ただ地図アプリの位置情報を示すURLだった。私は震える指でそのリンクをタップした。画面に表示された名前を見て、心臓が凍り付いた。
『████大学病院』
輝かしい光の裏にあった現実は、私が想像していたよりもずっと重く、残酷な形でそこにあった。
【こと座】
夏の天の川のほとりで輝く小さな星座。一等星ベガは、七夕の「織姫星」として知られる。ギリシャ神話では、天才音楽家オルフェウスの竪琴の姿。彼は、死んだ妻を冥界から連れ戻そうとするも、あと一歩のところで失敗してしまう。彼の死後、その竪琴だけが天に上げられ星座になったという。
案内された病室のドアを震える指でそっと開ける。そこにいたのは、私が知っている「彼女」のはずだった。けれど、どこか違って見えた。薄い病院着からのぞく腕は前よりもずっと細く、色素の薄い肌は病室の白い壁に溶けてしまいそうなくらいに透明だった。彼女はベッドの上で本を読んでいたが、私の姿を認め、ゆっくりとこちらに顔を向ける。そこには一瞬だけ悲しみの色が浮かんでいた。しかしそれもすぐに消え、いつものように穏やかに、そしてばつが悪そうに笑った。
「……来たのね」
「……はい。……来ました」
それ以上、どんな言葉を交わせばいいのか分からなかった。消毒液の匂いがツンと鼻をつく。遠くから聞こえる無機質な電子音が、この場所が日常から切り離された空間であることを告げていた。
聞きたいことは山ほどあった。いつからここにいるのか?身体の具合は?どうして何も言ってくれなかったのか?言葉は全て喉の奥に張り付いて出てこない。視線は行き場をなくし、彼女の顔とベッドの脇に立つ点滴スタンドとの間を意味もなく彷徨う。細い管が痛々しいほど白い彼女の腕に繋がっている。その事実が、彼女の病状が私の想像よりもずっと重いものであることを残酷なまでに物語っていた。
先に沈黙を破ったのは彼女の方だった。彼女は気まずそうに立ち尽くす私からふいと視線を外し、窓の外に広がる夜空を見つめた。
「……もうすぐ、ペルセウス座流星群ね」
その声は驚くほど穏やかだった。それは、天文部の先輩がたった一人の後輩に話しかける、いつもと変わらない優しい声だった。その横顔を見て、私は今日ここに来た一番の理由を思い出した。
「そうです。だから、来ました」
声が、自分でも驚くほど震えていた。それは、単に去年交わした約束を果たしたいというだけのエゴではなかった。今まで見て見ぬふりをしてきた暗い影を前にしても、この約束さえ守れば、二人で星を見上げることができれば、あの幸せだった日々の続きがまだあるはずだと、そう思ったからだ。もし今年一緒に見ることができなければ、その瞬間に全てが終わってしまう。そんな根拠のない、けれどどうしようもない恐怖に私は突き動かされていたのだ。
私の言葉に、彼女は少しだけ悲しそうに目を伏せた。
「ごめんなさい。今年は、無理そうね」
その言葉はまるで最終通告のように聞こえ、私はたまらず声を上げた。
「見れます!屋上、行きましょう!」
「でも、私の身体…」
「私が車椅子を押しますから!」
食い気味に言う私を、彼女は困ったような、諭すような目で見つめる。その視線に、私は怯まなかった。彼女はしばらく私を見つめ、そしてふっと息を漏らした。それは諦めにも、呆れにも、そしてほんの少しの喜びにも見えた。
「……あなたって人は」
その呆れたような声色には、不思議と温かみが滲んでいた。
「……少しだけ、なら」
彼女は、そう言って小さく頷いた。
【かんむり座】
うしかい座の隣にある、半円形に星が並んだ愛らしい星座。ギリシャ神話では、酒の神ディオニュソスが、愛する王女アリアドネの死を悼み、彼女に贈った美しい冠を天に掲げて星座にしたものとされる。永遠の愛と追憶の象徴。
私が押す車椅子が、タイル張りの床を滑るように進む。屋上は、コンクリートが剥き出しの殺風景な場所ではなく、小さな花壇やベンチが置かれた、ささやかな憩いの場だった。昼間の熱が冷めやらぬ生温かい風に、消毒液の匂いが微かに混じっていた。屋上の縁、空が一番広く見える場所に車椅子を止め、私はその隣にしゃがみこんだ。見上げた空は、去年と何も変わらない。寸分の狂いもなく、同じ星々が同じ場所で輝いている。変わってしまったのは私たちのほうだった。
やがて、その時が来た。空のあちこちで、光の筋が走り始める。去年、あれほど私を熱狂させたペルセウス座流星群。けれど、今年は不思議と冷静だった。綺麗だと、もちろん思う。でもそれ以上に、隣にいる彼女のことばかりが気になってしまう。あんなこと言って強引に連れ出してしまったが、彼女は楽しんでいるだろうか。無理をさせてしまってはいないだろうか。去年と同じように、私はそっと彼女の横顔に視線を移す。しかし、そこにあった光景に私は言葉を失った。
夜空に流星が走るように、彼女の白い頬を一筋の露が伝っている。涙だった。彼女は、今まで自分が弱っている姿を私に一度も見せたことがなかった。涙なんてもってのほかだ。そんな彼女の初めて見る表情は、あまりに儚く──そして美しかった。空を走る流星のことも忘れ、私は彼女のその横顔に釘付けになっていた。
「……ねえ」
不意に、彼女が静かに口を開いた。
「願い事、しましょう」
その言葉に、私ははっとした。そうだ、流れ星に願い事。去年は目の前の光景に心を奪われるあまりそんな当たり前のことさえすっかり忘れてしまっていた。けれど今年は違う。今年の私には願いたいことがたった一つだけ、はっきりとあった。ちょうどその時、一際明るい流星が、空を切り裂くように尾を引いた。私は強く、強く目を閉じた。心の中で、祈る。
──来年も。来年もまた、彼女と一緒に、この流星群を見られますように。
目を開けると、彼女はまだ空を見上げていた。その瞳からは涙が消え、何かを堅く決意したかのようにま真っ直ぐとした、それでいていつも部室で見るよりもずっと穏やかな眼をしていた。
「先輩は、何を願ったんですか?」
できるだけ明るい声で、私は尋ねた。病気が治りますように、だろうか。それとも、早く退院できますように、だろうか。彼女は私の方を見ない。ただ、星々が煌めくそのさらに奥の、深い深い闇を見つめたままこう言った。
「……星座になりたい」
「え……?」
聞き間違いかと思った。星座?どういう意味だろう。私が戸惑っていると、彼女はゆっくりとこちらに顔を向けた。その表情は冗談を言っているようには見えなかった。ただ、あの夜と同じ、ほんの少しだけ寂しげな、それでいて全てを受け入れたかのような、静かな笑みを浮かべているだけだった。
私はその言葉の意味を、繰り返し、繰り返し考えていた。何かを問いただしたかったのに、声にならなかった。そんな私の不安を見透かすように、彼女は、私の手にそっと自分の手を重ねてきた。その手は驚くほど冷たかった。そして、小さな子供をなだめるように言った。
「……来年も、また見ましょう」
彼女の言葉に耳を疑った。彼女の方から来年の話をしてくれるなんて。それは全く思いがけないことで、私は呆気に取られて彼女の顔を見つめることしかできなかった。彼女は、もう一度、念を押すかのようにはっきりと言った。
「約束よ」
その言葉が、暗い現実を照らす最後の光のように思えた。その光だけを信じることにして、私は何度も、何度も頷いた。
【オリオン座】
冬の星座の王者。三つ星が並んだ特徴的な形は、古代より世界中の神話で語られてきた。ギリシャ神話では、美しく傲慢な狩人オリオンの姿。冬の夜空に圧倒的な存在感で君臨するこの星座も、春になると西の地平線へと沈む。
それからというもの、私は毎日のように彼女の病室に通った。彼女もそれを拒まなくなった。他愛ない話をし、本を読み、髪を梳かす。けれど、そんな私たちの時間に反して、彼女の命の灯火は虚しくも、みるみるうちに小さくなっていく。肌の透明感は、もはや白さを通り越してひびの入ったガラス細工のように危うげだった。細い腕に繋がれた管の数も日に日に増えていく。時折、身体が痛むのか、彼女は苦しそうに顔をしかめる。その光景を目の当たりにするたびに、私の心は焦りと絶望で黒く塗りつぶされていった。
それでも、彼女の前では決して笑顔を崩さなかった。ここで私が泣いてしまったら、今まで二人で紡いできたあの宝物のような日々の輝きが、辛く厳しい現実の濁流に全て押し流されてしまう気がしたからだ。流星群の夜にした願い事が叶うかどうかなんて、考えている余裕はなかった。ただ、この日常が一日でも長く続くことだけを祈っていた。
しかし、内側から崩れていきそうな私とは対照的に、彼女の表情はずっと穏やかだった。どうして。どうしてそんなに静かな顔をしていられるのだろう。私はこんなに怖いのに。本当に怖いのは彼女自身のはずなのに。その静けさが、まるで私だけが取り残されていくような、途方もない孤独を感じさせた。
その時は無情に訪れた。知らせを聞いて病院に駆けつけた時、彼女の命はもう尽きかけていた。医師や看護師が彼女を取り囲み、慌ただしく動いている。しかし、こんな時になっても、彼女の顔はやはり穏やかなままだった。静謐とした彼女の姿が病室の喧騒の中に浮かび上がって見える。私は彼女の冷たい手を取り、必死に、何度も、その名を叫ぶ。
「先輩……!昴先輩!」
すると、まるで夢の中で愛しいものを見つけたかのように、彼女の顔がふっとほころんだ。そしてそのまま、星の光が静かに消えるように息を引き取った。安らかに眠る彼女の上に、私の声にならない慟哭が覆い被さる。その間に鳴る長い無機質な電子音は、私と彼女を断絶する境界線のようだった。
窓の外では、私と彼女が出会ったあの夜と何も変わらず、スピカの青白い光が私たちを静かに見下ろしていた。
【カシオペヤ座】
北の空でW(またはM)の形に輝く、一年中見ることができる星座。古代エチオピアの王妃カシオペヤの姿で、北極星を見つけるための目印としても使われる。神話では、その美しさを自慢した罰として、永遠に天の玉座に縛り付けられているとされる。
彼女がいなくなってから、私の世界の彩度はまるで嘘のように落ちていった。天文研の部室へと続く道は泥沼のように足が進まない。夜空を見上げることさえできなくなっていた。少し顔を上げただけで、星の一つ一つが彼女との思い出の棘となって胸に突き刺さる。楽しかった記憶の光が今は何よりも私を傷つけるのだ。私は、彼女との思い出から逃げるように星のない世界で息を潜めていた。
そうこうしているうちに夏が来た。ペルセウス座流星群が今年もやってくる。去年病院の屋上で交わした彼女との最後の「約束」。しかし、逃げ続けるのは、違う。彼女がくれたたくさんの美しい光を、私自身が否定してしまうことになる。私は向き合わなければいけない。
そう決意して、約束の夜、私は再び学校へと向かった。まず向かったのは、あの部室だった。そこは、時が止まったままだった。夢中になってめくった古い星図鑑、二人で覗いた望遠鏡。全てが、あの日のままそこにある。けれど、部屋の主だけがいない。彼女がいつも座っていた椅子だけが、スポットライトのように虚しく月光に照らされている。かつてはふたりだけの宇宙だったこの部屋が、今はただの空っぽの箱にしか見えなかった。
私は静かに扉を閉め、屋上へと続く階段を上った。一年ぶりに開ける扉は、ぎい、と錆びついた蝶番のような音を立てる。そこに広がるのは、去年と同じ、本当の闇。そして、その中に──。
「……待ってたわ」
そこに彼女はいた。病院で見た弱々しい姿ではない。初めて部室で出会った時のような、どこか人間離れした静謐な美しさを湛えて、彼女はそこに立っていた。
「……せん……ぱい?」
声が、震えた。目を擦っても、頬をつねっても、彼女の姿は消えない。これは幻だ。あり得ない。その時、目の前の彼女が、懐かしそうに、悪戯っぽく微笑んだ。
「人間は、少しだけ、ずるくて、愛おしい生き物。そうでしょう?」
それは、いつか彼女が語ってくれた言葉。でも、過去の記憶の再生ではない。今、確かに、彼女が私に語りかけている。
「遠く離れた星の、とうの昔の光を見て、私たちは綺麗だって思う。もうそこにいないかもしれない誰かのことを、必死に思い出して、心の中に形を作る。……あなたも、同じことをしてくれたのね」
その言葉で、全てが繋がった。ふたりで覗いた天体望遠鏡。他愛ない会話。冬の日に分け合ったブランケットの匂い。ココアの温かさ。病院の屋上で交わした、最後の約束。彼女と過ごした一つ一つの思い出が、夜空に瞬く星々のように、私の心の中で一斉に輝きだす。
彼女は星だった。私にとって、夜空に輝くどの星よりも、特別で、大切な、たった一つの星。だから、たとえその命が燃え尽きてしまっても、その過去の光は私の心に届き続ける。そして私は、その無数の光の点を、心の中でゆっくりと一本の線で結んでいく。そうして描き出されたのが、今、目の前で優しく微笑んでいる彼女の姿そのものだった。
星座になりたい。あの夜、意味が分からなかった彼女の願い。その本当の意味を、私はようやく理解した。彼女は、自分がもう長くないことを知っていた。肉体は滅びて、いつか忘れられてしまう。でも、星座としてなら、誰かの心の中に物語として永遠に生き続けることができる。彼女は、私の心の中に決して消えない光の記憶として残りたかったのだ。私に、覚えていて欲しかったのだ。
「……ありがとう。私の星座を、見つけてくれて」
彼女が、私に向かって一歩、また一歩と歩み寄ってくる。涙が溢れて視界が滲む。でも、もう大丈夫。もう、星を見るのは怖くない。彼女は私の目の前で立ち止まると、そっと両手を広げた。私は、その胸に飛び込むように、力いっぱい彼女を抱きしめた。温かさは、ない。けれど、彼女の光の腕が、私の背中を優しく、でも確かに、抱きしめ返してくれた。凍りついていた私の心が、不思議な安心感に包まれて、ゆっくりと溶けていく。
ちょうどその時、空のあちこちで流星が走り始めた。降り注ぐ光の雨の中で、私たちの願い事は叶えられたのだ。
彼女は星座になった。
【ふたご座】
冬の夜空に仲良く並んで輝く。神話では、不死身の兄ポルックスと、人間である弟カストルの姿。弟が戦で死んだ時、兄はその死を深く悲しみ、自らの不死性を弟に分け与え、二人で共に天に昇り、一つの星座になったという。
これが、私とあなたが生きた時間の全て
あなたという星が放った、あまりにも眩しい過去の光の物語
この物語が誰かの心に届く頃、あなたと私は、ふたご座のように、永遠に夜空で寄り添うことができる
見てる、先輩?
これが、私たちの星座だよ